【遍路みち 八十八】vol.25 「第七十九番 天皇寺」香川県 坂出市 西庄町
遍路みち八十八。高知県の種間寺で停滞していますが、すでに回った香川県のお寺を再訪しました。
坂出の「第七十九番 天皇寺」。以前、回った時に少し違和感を感じたのですが、ささっと参拝してそのまま次の寺へ向かいました。後に崇徳上皇のことを知り、この天皇寺も深いつながりがあることがわかりました。お寺の名前を見ればすぐわかりそうなものですけど、特に気にしなかったですねぇ。
お寺なのに鳥居が立っています。しかも神額に「崇徳天皇」と書いてあります。たしか前に来た時にこれは読んだんだよなぁ。
この鳥居をくぐった左手奥に本堂と大師堂が見えます。こじんまりと。
本堂と
大師堂。ごく一般的なお寺です。創建は天平年間729年〜749年ごろ。行基菩薩による開基。11号線の金山トンネルの手前の北側にあります。
金山・・・鉱石が多く採れたこの山は、カナヤマビメとカナヤマヒコの御座する山として「金山」と命名された・・・そんな昔なんですね。金山中腹に薬師如来をご本尊とした金山摩尼珠院として建立。その後、100年近く経った頃には寺は荒れ果て、弘法大師が訪れて金山摩尼珠院を現在の地に移し、七十九番札所としました。
納経所はこの変わった扉の向こうですが、ここは通れず、鳥居を出てぐるっと回って壁の向こう側にあります。
そして鳥居の正面にあったのは・・・「白峯宮」。1156年保元の乱の後に讃岐へ配流となった崇徳上皇は、約9年後にこの地で亡くなり、第八十一番 白峯寺で荼毘に付されます。崩御された年に、後白河法皇の第一皇子の二条天皇が、御所のあった場所に崇徳天皇社を造営。その79年後の1244年に後嵯峨天皇により再建。その際に摩尼珠院を別当寺とするが、330年後の安土桃山時代の天正年間に焼失。その後再建され、江戸時代には崇徳天皇明けの宮と呼ばれ、摩尼珠院と合わせて「七十九番札所 天皇寺」となった。
さすが八十八ヶ所の寺はどこも歴史が古い。さらに幕末の孝明天皇は、動乱を憂い、崇徳上皇の御霊を京都へお戻しになる鎮魂を提案したが、実現せず崩御。明治天皇がその意思を継ぎ、崇徳上皇の命日である8月26日に勅使が讃岐国に派遣、翌日の8月27日に京都御所で即位式を行い、江戸時代最後の年である慶応4年の9月6日に崇徳上皇の御霊が京都の白峯宮に到着し、翌日9月7日に明治天皇が参拝。9月8日から元号が慶応から明治に変わったという・・・・そこにも崇徳上皇が関わっておられたのですねぇ。
菊の御紋の馬。
白峯寺と同じ菊の紋に「白」の文字の「白峯宮」。崇徳上皇の御霊が京都に戻られた後は、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となりました。
白峯宮の横には樹齢500年の御神木である楠木が立派にそびえています。500年前ですから・・・室町時代に植えられた楠木ですかねぇ。
こちらも御神木ですが「榊」。玉串に使う榊はこの木から採るのかなぁ。いや、足らんと思う。小さい祠がある・・・網野房次は誰でしょう。わかりません。
その横には「力石」。力比べ競争に使われたって・・・これ持てるんか?
「白峯宮」の裏に出ましたが・・・もしかしてこの道は・・・
坂道をずっと下っていくと・・・
ここに突き当たりました。見たことあるはずです。この前来た「八十場のところてん清水屋」。
あぁ、そうか。荼毘に付されるまでご遺体を湧水で冷やしていたのはここでした。この前、天皇寺に来た時にどうして清水屋の近くだったことに気づかなかったんだろう。
「崇徳天皇御殯劍御遺跡」の碑。火葬する前のご遺体を安置した場所の意味ですね。
崇徳上皇を偲びつつ、またところてんをいただきます。
坂出の「第七十九番 天皇寺」。以前、回った時に少し違和感を感じたのですが、ささっと参拝してそのまま次の寺へ向かいました。後に崇徳上皇のことを知り、この天皇寺も深いつながりがあることがわかりました。お寺の名前を見ればすぐわかりそうなものですけど、特に気にしなかったですねぇ。
お寺なのに鳥居が立っています。しかも神額に「崇徳天皇」と書いてあります。たしか前に来た時にこれは読んだんだよなぁ。
この鳥居をくぐった左手奥に本堂と大師堂が見えます。こじんまりと。
本堂と
大師堂。ごく一般的なお寺です。創建は天平年間729年〜749年ごろ。行基菩薩による開基。11号線の金山トンネルの手前の北側にあります。
金山・・・鉱石が多く採れたこの山は、カナヤマビメとカナヤマヒコの御座する山として「金山」と命名された・・・そんな昔なんですね。金山中腹に薬師如来をご本尊とした金山摩尼珠院として建立。その後、100年近く経った頃には寺は荒れ果て、弘法大師が訪れて金山摩尼珠院を現在の地に移し、七十九番札所としました。
納経所はこの変わった扉の向こうですが、ここは通れず、鳥居を出てぐるっと回って壁の向こう側にあります。
そして鳥居の正面にあったのは・・・「白峯宮」。1156年保元の乱の後に讃岐へ配流となった崇徳上皇は、約9年後にこの地で亡くなり、第八十一番 白峯寺で荼毘に付されます。崩御された年に、後白河法皇の第一皇子の二条天皇が、御所のあった場所に崇徳天皇社を造営。その79年後の1244年に後嵯峨天皇により再建。その際に摩尼珠院を別当寺とするが、330年後の安土桃山時代の天正年間に焼失。その後再建され、江戸時代には崇徳天皇明けの宮と呼ばれ、摩尼珠院と合わせて「七十九番札所 天皇寺」となった。
さすが八十八ヶ所の寺はどこも歴史が古い。さらに幕末の孝明天皇は、動乱を憂い、崇徳上皇の御霊を京都へお戻しになる鎮魂を提案したが、実現せず崩御。明治天皇がその意思を継ぎ、崇徳上皇の命日である8月26日に勅使が讃岐国に派遣、翌日の8月27日に京都御所で即位式を行い、江戸時代最後の年である慶応4年の9月6日に崇徳上皇の御霊が京都の白峯宮に到着し、翌日9月7日に明治天皇が参拝。9月8日から元号が慶応から明治に変わったという・・・・そこにも崇徳上皇が関わっておられたのですねぇ。
菊の御紋の馬。
白峯寺と同じ菊の紋に「白」の文字の「白峯宮」。崇徳上皇の御霊が京都に戻られた後は、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となりました。
白峯宮の横には樹齢500年の御神木である楠木が立派にそびえています。500年前ですから・・・室町時代に植えられた楠木ですかねぇ。
こちらも御神木ですが「榊」。玉串に使う榊はこの木から採るのかなぁ。いや、足らんと思う。小さい祠がある・・・網野房次は誰でしょう。わかりません。
その横には「力石」。力比べ競争に使われたって・・・これ持てるんか?
「白峯宮」の裏に出ましたが・・・もしかしてこの道は・・・
坂道をずっと下っていくと・・・
ここに突き当たりました。見たことあるはずです。この前来た「八十場のところてん清水屋」。
あぁ、そうか。荼毘に付されるまでご遺体を湧水で冷やしていたのはここでした。この前、天皇寺に来た時にどうして清水屋の近くだったことに気づかなかったんだろう。
「崇徳天皇御殯劍御遺跡」の碑。火葬する前のご遺体を安置した場所の意味ですね。
崇徳上皇を偲びつつ、またところてんをいただきます。
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