【歴史探訪、今日へ繋がるタイムライン】vol.7 「静御前 剃髪塚」さぬき市 長尾西
歴史探訪。今回はお遍路さんで訪れた長尾時に再びやってきました。
「静御前の剃髪塚」があったのを記憶していたからです。「鎌倉殿の13人」を観て、源義経の愛妾であった静御前の縁の地であったのか?と興味が沸きました。どこにあったのか?・・・・この本殿の左側。
興亜地蔵の横にありました。
「剃髪塚 静 法名号 宥心尼 二十有五歳 寂」
これが「剃髪塚」。
静御前は、舞の名人である母、磯禅師から舞を教わり、宮中で雨乞いのため、100人の僧に読経を行ったが効果がなく、100人の白拍子を舞わせ99人でも効用はなかったが100人めに静御前が舞ったところ、黒雲が現れ3日間雨が降り続いたという。後白河法皇が「日本一」の宣旨を贈った。
葛飾北斎による静御前。600年以上後に描かれたものです。吾妻鏡、平家物語、義経記と静御前の存在は多くの書物に残されていたので、後の時代でも有名人でしょう。静御前は、源義経に見初められ、愛妾となります。
「鎌倉殿の13人」でももちろん静御前に関する描写はありました。源平合戦で源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦まで平家を追い詰め、討ち滅ぼしますが・・・任務であった安徳天皇の三種の神器の確保に失敗。草薙剣を海に流してしまいます。異母兄である源頼朝とは当初懇意であったが、戦バカの義経は戦果をあげるものの常に独断専行で動く性格であり、源平合戦後は謀反を恐れ、頼朝は義経には会わず、朝敵とし追討を命じます。義経は西国へ逃げますが、義経の船団は嵐で遭難。義経は正妻の三郷御前を伴い、妾である静御前とは吉野で別れますが、静御前はそこで山僧に捕えられ、京都にいた北条時政に引き渡され、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られます。
源頼朝は、後白河法皇に「日本一」と言わしめた静御前の白拍子の舞を鶴岡八幡宮で舞わせますが、義経を慕う歌を唄ったことから激怒します。この時、静御前は義経の子供を身ごもっており、頼朝の「女子なら生かすが、男子なら殺せ」という命により、男の赤子は由比ヶ浜に沈められてしまいます。
頼朝の妻、北条政子と娘の大姫が、静御前をとても憐れみ、多く重宝を与えられ母の磯禅師とともに京へ帰されますが、悲劇のヒロインである静御前には諸説あり、奥州平泉まで追い詰められ討ち取られる義経を追いかけたという伝承が日本全国各地に残っています。中にはその後、再び義経の子供を身籠り、流産し亡くなったとか。北海道まで渡り、入水自殺したとか・・・義経伝説と共に数多く残っているようです。
義経・・・死す。
「鎌倉殿の13人」での義経の最期は先日触れました。
この長尾寺に残る説は・・・母の磯禅師の故郷であった東かがわ市小磯・・・山田海岸の東側、三本松駅の北東側の海岸沿いですね。そこに身を寄せ、晩年は母娘で過ごしたというものです。長尾寺で母と共に出家し、宥心尼となりますが、その時に剃り落とした髪の毛が埋められているのがこの「剃髪塚」です。なんか一番普通で、説得力がありそうな説です。鎌倉時代に奥州まで追いかけるって・・・徒歩ですよね?ムリでしょう?京都から香川に来たという方が現実味があります。
ここには他にも長尾天満自在天神宮があります。天満宮・・・滝宮同様、菅原道真ゆかりのものですね。神仏分離は明治の時代ですからその遥か昔からあります。平安時代中期、886年に菅原道真は讃岐国司として先日訪れた鼓岡神社の近くの讃岐国府跡にいました。時代的には弘法大師のいた時代の100年後、源義経、静御前の200年前です。この頃に長尾寺の僧、明院と交流があり懇意にしていたようです。
890年に京へ戻り、宇多天皇の右大臣、その後の醍醐天皇の右大臣も拝命しますが、この時代は、藤原氏、源氏が天皇と姻戚関係を結ぶために娘を天皇に嫁がせまくってた時代で・・・菅原道真も第三皇子の斉世親王に娘の寧子を嫁がせていました。が、事実はどうであったか、醍醐天皇を廃し、斉世天皇に継がせる謀反を起こした罪で太宰府へ流されます。菅原道真は宇多上皇と懇意であったが、仲介が取り継がれなかったのも陰謀を感じます。結局、平安時代はこの後も世継ぎ争いが絶えず、崇徳上皇の保元の乱、平治の乱、鎌倉幕府に移ってもなお、鎌倉殿の世継ぎ争い、天皇の世継ぎ争いは続き、殺し殺されの連続となります。
902年に菅原道真公が太宰府へ行く途中、志度の浦で明院が道真公に「不期天上一円月、怱入西方万里雲」と詩を送って心を慰め、道真公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだ・・・とありますが、これは道真が太宰府へ行く途中で船の上で会ったということでしょうか。長尾にいながらにして京のできごとがそんなにすぐにわかる時代とは思えないなぁ。沖をゆく船に太宰府へ左遷となった道真が乗っているとはわからないでしょう。知らされたのかなぁ・・・こういう故事があったことから800年後の1710年に天満宮が建立され、さらに315年後の私がブログに書いているという・・・この時間の流れ。麺通団の田尾団長がこの前話していた、一次情報、二次情報、三次情報で言えば、いつ誰がいったかわからない情報をいろんなところから集めて切り抜いて・・・三次情報もいいところです。(笑 そう思ってください。
習字で使った筆を供養するために納める筆塚もあります。
さぬき市指定有形文化財に指定されている、栗林公園の北側にあった正門。大正2年の改築の際に払い下げてもらって、ここに保存しています。
最後は駐車場。前に来た時は更地でしたが、綺麗に舗装されていました。スバル車あるある。私の後に来た奈良ナンバーの現行のWRX S4。VBHですか。新旧のWRXが並ぶのは初めてです。こうしてみると新型はCピラーが太く剛性がありそうです。ルーフからトランクまでのラインの角度が浅く、VABでさえトランクが短くてリアスポイラーがないと尻切れトンボみたいでカッコ悪いのに、さらにトランク短いです。テールランプはBRZと同じテイスト。
最近になってやっとVBHにもリアスポイラーがメーカーオプションで選択できるようになったようですが、なんと530万円の最上級モデルのSTi sports-R Limitedのみ、502万円、447万円の下位グレードには装備できないって・・・トヨタに感化されて、スバルもあこぎな商売するようになりましたねぇ。
直噴2.4リッターターボ。FA24は、前モデルS4のトヨタと共同開発のFA20のボアアップ版。300psから275psにパワーダウンしています。VABの生粋のスバル製エンジン、EJ20はポート噴射の308ps。別物エンジンです。同じWRXですが・・・・VABの血筋は途絶えました。男系男性の天皇はVABまでです。FA20はトヨタの血が入った女系男性エンジンかなぁ。
と、いろいろ満載の長尾寺でした。
「静御前の剃髪塚」があったのを記憶していたからです。「鎌倉殿の13人」を観て、源義経の愛妾であった静御前の縁の地であったのか?と興味が沸きました。どこにあったのか?・・・・この本殿の左側。
興亜地蔵の横にありました。
「剃髪塚 静 法名号 宥心尼 二十有五歳 寂」
これが「剃髪塚」。
静御前は、舞の名人である母、磯禅師から舞を教わり、宮中で雨乞いのため、100人の僧に読経を行ったが効果がなく、100人の白拍子を舞わせ99人でも効用はなかったが100人めに静御前が舞ったところ、黒雲が現れ3日間雨が降り続いたという。後白河法皇が「日本一」の宣旨を贈った。
葛飾北斎による静御前。600年以上後に描かれたものです。吾妻鏡、平家物語、義経記と静御前の存在は多くの書物に残されていたので、後の時代でも有名人でしょう。静御前は、源義経に見初められ、愛妾となります。
「鎌倉殿の13人」でももちろん静御前に関する描写はありました。源平合戦で源氏軍を率いた源義経は、壇ノ浦まで平家を追い詰め、討ち滅ぼしますが・・・任務であった安徳天皇の三種の神器の確保に失敗。草薙剣を海に流してしまいます。異母兄である源頼朝とは当初懇意であったが、戦バカの義経は戦果をあげるものの常に独断専行で動く性格であり、源平合戦後は謀反を恐れ、頼朝は義経には会わず、朝敵とし追討を命じます。義経は西国へ逃げますが、義経の船団は嵐で遭難。義経は正妻の三郷御前を伴い、妾である静御前とは吉野で別れますが、静御前はそこで山僧に捕えられ、京都にいた北条時政に引き渡され、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られます。
源頼朝は、後白河法皇に「日本一」と言わしめた静御前の白拍子の舞を鶴岡八幡宮で舞わせますが、義経を慕う歌を唄ったことから激怒します。この時、静御前は義経の子供を身ごもっており、頼朝の「女子なら生かすが、男子なら殺せ」という命により、男の赤子は由比ヶ浜に沈められてしまいます。
頼朝の妻、北条政子と娘の大姫が、静御前をとても憐れみ、多く重宝を与えられ母の磯禅師とともに京へ帰されますが、悲劇のヒロインである静御前には諸説あり、奥州平泉まで追い詰められ討ち取られる義経を追いかけたという伝承が日本全国各地に残っています。中にはその後、再び義経の子供を身籠り、流産し亡くなったとか。北海道まで渡り、入水自殺したとか・・・義経伝説と共に数多く残っているようです。
義経・・・死す。
「鎌倉殿の13人」での義経の最期は先日触れました。
この長尾寺に残る説は・・・母の磯禅師の故郷であった東かがわ市小磯・・・山田海岸の東側、三本松駅の北東側の海岸沿いですね。そこに身を寄せ、晩年は母娘で過ごしたというものです。長尾寺で母と共に出家し、宥心尼となりますが、その時に剃り落とした髪の毛が埋められているのがこの「剃髪塚」です。なんか一番普通で、説得力がありそうな説です。鎌倉時代に奥州まで追いかけるって・・・徒歩ですよね?ムリでしょう?京都から香川に来たという方が現実味があります。
ここには他にも長尾天満自在天神宮があります。天満宮・・・滝宮同様、菅原道真ゆかりのものですね。神仏分離は明治の時代ですからその遥か昔からあります。平安時代中期、886年に菅原道真は讃岐国司として先日訪れた鼓岡神社の近くの讃岐国府跡にいました。時代的には弘法大師のいた時代の100年後、源義経、静御前の200年前です。この頃に長尾寺の僧、明院と交流があり懇意にしていたようです。
890年に京へ戻り、宇多天皇の右大臣、その後の醍醐天皇の右大臣も拝命しますが、この時代は、藤原氏、源氏が天皇と姻戚関係を結ぶために娘を天皇に嫁がせまくってた時代で・・・菅原道真も第三皇子の斉世親王に娘の寧子を嫁がせていました。が、事実はどうであったか、醍醐天皇を廃し、斉世天皇に継がせる謀反を起こした罪で太宰府へ流されます。菅原道真は宇多上皇と懇意であったが、仲介が取り継がれなかったのも陰謀を感じます。結局、平安時代はこの後も世継ぎ争いが絶えず、崇徳上皇の保元の乱、平治の乱、鎌倉幕府に移ってもなお、鎌倉殿の世継ぎ争い、天皇の世継ぎ争いは続き、殺し殺されの連続となります。
902年に菅原道真公が太宰府へ行く途中、志度の浦で明院が道真公に「不期天上一円月、怱入西方万里雲」と詩を送って心を慰め、道真公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだ・・・とありますが、これは道真が太宰府へ行く途中で船の上で会ったということでしょうか。長尾にいながらにして京のできごとがそんなにすぐにわかる時代とは思えないなぁ。沖をゆく船に太宰府へ左遷となった道真が乗っているとはわからないでしょう。知らされたのかなぁ・・・こういう故事があったことから800年後の1710年に天満宮が建立され、さらに315年後の私がブログに書いているという・・・この時間の流れ。麺通団の田尾団長がこの前話していた、一次情報、二次情報、三次情報で言えば、いつ誰がいったかわからない情報をいろんなところから集めて切り抜いて・・・三次情報もいいところです。(笑 そう思ってください。
習字で使った筆を供養するために納める筆塚もあります。
さぬき市指定有形文化財に指定されている、栗林公園の北側にあった正門。大正2年の改築の際に払い下げてもらって、ここに保存しています。
最後は駐車場。前に来た時は更地でしたが、綺麗に舗装されていました。スバル車あるある。私の後に来た奈良ナンバーの現行のWRX S4。VBHですか。新旧のWRXが並ぶのは初めてです。こうしてみると新型はCピラーが太く剛性がありそうです。ルーフからトランクまでのラインの角度が浅く、VABでさえトランクが短くてリアスポイラーがないと尻切れトンボみたいでカッコ悪いのに、さらにトランク短いです。テールランプはBRZと同じテイスト。
最近になってやっとVBHにもリアスポイラーがメーカーオプションで選択できるようになったようですが、なんと530万円の最上級モデルのSTi sports-R Limitedのみ、502万円、447万円の下位グレードには装備できないって・・・トヨタに感化されて、スバルもあこぎな商売するようになりましたねぇ。
直噴2.4リッターターボ。FA24は、前モデルS4のトヨタと共同開発のFA20のボアアップ版。300psから275psにパワーダウンしています。VABの生粋のスバル製エンジン、EJ20はポート噴射の308ps。別物エンジンです。同じWRXですが・・・・VABの血筋は途絶えました。男系男性の天皇はVABまでです。FA20はトヨタの血が入った女系男性エンジンかなぁ。
と、いろいろ満載の長尾寺でした。
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