【歴史探訪、今日へ繋がるタイムライン】vol.6 「崇徳上皇ゆかりの地」坂出市
歴史ネタ。
先日の崇徳天皇陵を訪れた際に、他にも史跡があることがわかりました。
【歴史探訪、今日へ繋がるタイムライン】vol.3 「崇徳天皇陵」つづき
仮御所の雲井御所の後に6年住まわれたのが鼓岡神社にある「擬古堂(ぎこどう)」です。
鼓岡神社は、崇徳上皇崩御の後に小さな祠を建てて祀ったものです。
神社の境内の横にある民家が「擬古堂」です。御所であるにも関わらず、丸太で作られた粗末な建物だったそうです。現在の建物は大正二年(1913年)崇徳上皇七百五十年大祭の際ににかつての木の丸殿を模して造られたので「擬古堂」と呼ばれています。木の丸殿は御陵近くに移され、それが頓証寺殿となったそうです。
崇徳院御製碑。「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれても末に 逢わむとぞ思う」
小倉百人一首の七十七番です。
川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。
平成十二年に作られた碑です。
杜鵑塚(ほととぎすづか)。
崇徳上皇は、ホトトギスの声を聞き、深く都をしのんで「啼けば聞く 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」と詠みました。
それを耳にした里人が気を遣い、以来鼓岡一帯ではホトトギスが鳴かなくなったといいます。(ホトトギスを捕まえて殺してしまったということね)その後、ホトトギスを供養し杜鵑塚を建てたといいます。ホトトギス・・・「トッキョキョカキョク」と鳴く鳥ね。綾川の工場のまわりにいっぱいいて、朝はキョカキョクだらけでうるさかったです。(笑
信長、秀吉、家康が鳴かせようとしたのもホトトギスね。
右近の橘は今年3月に植えたばかり。
左近の梅も同様。後の世に大樹となることを祈りましょう。
鼓岡神社の裏には「内裏泉(だいりせん)」があります。崇徳上皇が飲み水に使われていた井戸。どんな干ばつでも枯れなかったとか。
850年以上経つ今も水はあふれてます。
「菊塚」・・・崇徳上皇が雲井御所にいる時に、身の回りの世話をしていた綾高遠の息女、綾の局との間に1人の男の子が生まれました?そんなことがあるんですね。・・・・皇子、顕末(あきすえ)の墓がこの菊塚。一般住宅の前ですね。皇女の「姫塚」も別にあるようです。
なんと田んぼの真ん中に「椀塚(わんづか)」というものもあり・・・・崇徳上皇が使った食器類を埋めた場所だそうです。そんなものまであるとは・・・
そして同じく田んぼの真ん中にあるのが、「讃岐国府跡」。701年の大宝律令施行の後、朝廷は日本全国に国司を配置し、地方政治を行いました。菅原道真が赴任したのがこの辺りです。この一帯の田んぼが奈良時代から平安時代の建物跡が発掘調査で発見されました。
「讃岐国府跡」の碑が建っています。
鼓岡神社の横の池には、ハスの葉がいっぱい。そしてハスの花が咲いています。
ハスの花は大きいですね。極楽浄土に咲く花。お盆も近いですね。
ハスの実もなってます。
水面に花が咲くのが睡蓮。水面から茎がのびて花が咲くのがハスです。そしてこの水の下には・・・レンコンができますね。
そこから少し離れた・・・旧11号線沿い。残念ながら閉店しました、豚太郎があった近くです。「柳田碑こっち」。
元自動車修理工場の裏。そこの女将さんがいたので
「柳田はこの裏ですか?」
「はい、そうですよ。」
「ここ通っても大丈夫ですか?」
「どうぞ。入ってください。熱心ですね。」
入ってくださいって・・・道らしい道がなくて・・・用水路のコンクリートの上を雑草避けながら行くしかないです。あの奥に立ってるアレです。
予讃線が通るすぐそばです。こんなところ。
延享二年(1745)の『讃州府誌』によると、長寛二年(1164)8月26日、二条天皇はひそかに、讃岐の武士・三木近安という者に命じて、崇徳上皇の暗殺を図った。近安は青い馬に乗り、紫の手綱を取って、仮御所のある鼓岡を襲撃した。上皇は逃げて大きな柳の木の穴に隠れた。近安は上皇を探し出して殺害し、上皇は46歳の生涯を終えた。このことによって、三木姓の者、青い馬に乗る者や紫色を身に着ける者は白峰山に登ってはならないと言い伝えられている。
この石碑は大正10年に建てられたもの。ここで崇徳上皇が亡くなったらしい。
当時、京の都から讃岐こんな田舎に流されて・・・9年間。どんな思いで過ごされたのでしょう。1男1女も生まれてこのまま安寧に暮らせると思っていたでしょうか。崇徳上皇が詠む歌からも再び京での生活を夢見ていたのでしょう。まさか刺客に殺されようとは・・・かつての天皇の世継ぎ争いは常に殺し、殺され・・・の連続です。
そしてもう一度、白峰寺へ行ってみました。
崇徳上皇、白峯寺の略縁起がつづられていました。崇徳天皇陵は、荼毘に付された場所だったのですね。
重要文化財 白峯十三重石塔」。源頼朝が崇徳上皇の菩提のために建立されたと言い伝えられるが、塔の刻銘が「弘安元年」と「元亨四年」とあることから、頼朝没後80年、120年であることから頼朝の建立ではない。
鎌倉時代、中期、後期の建立であることは間違いない。
宝物館がありました。平成15年(2003年)建立した拝観型のお堂で、重要文化財指定の「勅額」をはじめ、各指定文化財や崇徳天皇にまつわる寺宝などが展示されているそうですが、訪問の10日前に申し込む必要があるため、見学できませんでした。
「勅使門」重要文化財。江戸時代後期の建立で、切妻造である。嘗ては都からの勅使が来た際に使用されていた。
「御成門」重要文化財。享保9年(1724年)建立された御成門は藩主の御成を想定した客殿の構成用の1つとされ、勅額門同様に技巧的な軸部を構成し、中備の蟇股に仙人を彫るなど、軸部、細部ともに格式高く作り込まれている。
と、白峯寺は、重要文化財だらけであることに気がつきました。これも崇徳天皇陵があるおかげで、鎌倉時代からずっと天皇家はじめ、京の人々、武士にいたるまでその名を知らしめていた寺であったためであろうと推測します。
最後に昭和39年、私が生まれた年の崇徳天皇八百年祭の記念碑と寄進碑。
左端の「松平頼明」氏は、13代目、松平家当主。高松城、松平のお殿様の子孫です。初代松平頼重が水戸光圀の兄だった話は有名。
地元有力企業の百十四銀行、四国電力。三者の寄付は百五拾萬円也。平井卓也氏の祖父、平井太郎氏、松下幸之助氏、近鉄社長佐伯氏は百萬円。
大平元総理は拾萬円。
名物かまど・・は拾萬円。これは・・・今の物価からすると10倍くらいの価値でしょうか。
しかし、崇徳上皇ゆかりの地、調べればいろいろわかって面白かったです。まだありそうですので、またおいおい。
先日の崇徳天皇陵を訪れた際に、他にも史跡があることがわかりました。
【歴史探訪、今日へ繋がるタイムライン】vol.3 「崇徳天皇陵」つづき
仮御所の雲井御所の後に6年住まわれたのが鼓岡神社にある「擬古堂(ぎこどう)」です。
鼓岡神社は、崇徳上皇崩御の後に小さな祠を建てて祀ったものです。
神社の境内の横にある民家が「擬古堂」です。御所であるにも関わらず、丸太で作られた粗末な建物だったそうです。現在の建物は大正二年(1913年)崇徳上皇七百五十年大祭の際ににかつての木の丸殿を模して造られたので「擬古堂」と呼ばれています。木の丸殿は御陵近くに移され、それが頓証寺殿となったそうです。
崇徳院御製碑。「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれても末に 逢わむとぞ思う」
小倉百人一首の七十七番です。
川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。
平成十二年に作られた碑です。
杜鵑塚(ほととぎすづか)。
崇徳上皇は、ホトトギスの声を聞き、深く都をしのんで「啼けば聞く 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」と詠みました。
それを耳にした里人が気を遣い、以来鼓岡一帯ではホトトギスが鳴かなくなったといいます。(ホトトギスを捕まえて殺してしまったということね)その後、ホトトギスを供養し杜鵑塚を建てたといいます。ホトトギス・・・「トッキョキョカキョク」と鳴く鳥ね。綾川の工場のまわりにいっぱいいて、朝はキョカキョクだらけでうるさかったです。(笑
信長、秀吉、家康が鳴かせようとしたのもホトトギスね。
右近の橘は今年3月に植えたばかり。
左近の梅も同様。後の世に大樹となることを祈りましょう。
鼓岡神社の裏には「内裏泉(だいりせん)」があります。崇徳上皇が飲み水に使われていた井戸。どんな干ばつでも枯れなかったとか。
850年以上経つ今も水はあふれてます。
「菊塚」・・・崇徳上皇が雲井御所にいる時に、身の回りの世話をしていた綾高遠の息女、綾の局との間に1人の男の子が生まれました?そんなことがあるんですね。・・・・皇子、顕末(あきすえ)の墓がこの菊塚。一般住宅の前ですね。皇女の「姫塚」も別にあるようです。
なんと田んぼの真ん中に「椀塚(わんづか)」というものもあり・・・・崇徳上皇が使った食器類を埋めた場所だそうです。そんなものまであるとは・・・
そして同じく田んぼの真ん中にあるのが、「讃岐国府跡」。701年の大宝律令施行の後、朝廷は日本全国に国司を配置し、地方政治を行いました。菅原道真が赴任したのがこの辺りです。この一帯の田んぼが奈良時代から平安時代の建物跡が発掘調査で発見されました。
「讃岐国府跡」の碑が建っています。
鼓岡神社の横の池には、ハスの葉がいっぱい。そしてハスの花が咲いています。
ハスの花は大きいですね。極楽浄土に咲く花。お盆も近いですね。
ハスの実もなってます。
水面に花が咲くのが睡蓮。水面から茎がのびて花が咲くのがハスです。そしてこの水の下には・・・レンコンができますね。
そこから少し離れた・・・旧11号線沿い。残念ながら閉店しました、豚太郎があった近くです。「柳田碑こっち」。
元自動車修理工場の裏。そこの女将さんがいたので
「柳田はこの裏ですか?」
「はい、そうですよ。」
「ここ通っても大丈夫ですか?」
「どうぞ。入ってください。熱心ですね。」
入ってくださいって・・・道らしい道がなくて・・・用水路のコンクリートの上を雑草避けながら行くしかないです。あの奥に立ってるアレです。
予讃線が通るすぐそばです。こんなところ。
延享二年(1745)の『讃州府誌』によると、長寛二年(1164)8月26日、二条天皇はひそかに、讃岐の武士・三木近安という者に命じて、崇徳上皇の暗殺を図った。近安は青い馬に乗り、紫の手綱を取って、仮御所のある鼓岡を襲撃した。上皇は逃げて大きな柳の木の穴に隠れた。近安は上皇を探し出して殺害し、上皇は46歳の生涯を終えた。このことによって、三木姓の者、青い馬に乗る者や紫色を身に着ける者は白峰山に登ってはならないと言い伝えられている。
この石碑は大正10年に建てられたもの。ここで崇徳上皇が亡くなったらしい。
当時、京の都から讃岐こんな田舎に流されて・・・9年間。どんな思いで過ごされたのでしょう。1男1女も生まれてこのまま安寧に暮らせると思っていたでしょうか。崇徳上皇が詠む歌からも再び京での生活を夢見ていたのでしょう。まさか刺客に殺されようとは・・・かつての天皇の世継ぎ争いは常に殺し、殺され・・・の連続です。
そしてもう一度、白峰寺へ行ってみました。
崇徳上皇、白峯寺の略縁起がつづられていました。崇徳天皇陵は、荼毘に付された場所だったのですね。
重要文化財 白峯十三重石塔」。源頼朝が崇徳上皇の菩提のために建立されたと言い伝えられるが、塔の刻銘が「弘安元年」と「元亨四年」とあることから、頼朝没後80年、120年であることから頼朝の建立ではない。
鎌倉時代、中期、後期の建立であることは間違いない。
宝物館がありました。平成15年(2003年)建立した拝観型のお堂で、重要文化財指定の「勅額」をはじめ、各指定文化財や崇徳天皇にまつわる寺宝などが展示されているそうですが、訪問の10日前に申し込む必要があるため、見学できませんでした。
「勅使門」重要文化財。江戸時代後期の建立で、切妻造である。嘗ては都からの勅使が来た際に使用されていた。
「御成門」重要文化財。享保9年(1724年)建立された御成門は藩主の御成を想定した客殿の構成用の1つとされ、勅額門同様に技巧的な軸部を構成し、中備の蟇股に仙人を彫るなど、軸部、細部ともに格式高く作り込まれている。
と、白峯寺は、重要文化財だらけであることに気がつきました。これも崇徳天皇陵があるおかげで、鎌倉時代からずっと天皇家はじめ、京の人々、武士にいたるまでその名を知らしめていた寺であったためであろうと推測します。
最後に昭和39年、私が生まれた年の崇徳天皇八百年祭の記念碑と寄進碑。
左端の「松平頼明」氏は、13代目、松平家当主。高松城、松平のお殿様の子孫です。初代松平頼重が水戸光圀の兄だった話は有名。
地元有力企業の百十四銀行、四国電力。三者の寄付は百五拾萬円也。平井卓也氏の祖父、平井太郎氏、松下幸之助氏、近鉄社長佐伯氏は百萬円。
大平元総理は拾萬円。
名物かまど・・は拾萬円。これは・・・今の物価からすると10倍くらいの価値でしょうか。
しかし、崇徳上皇ゆかりの地、調べればいろいろわかって面白かったです。まだありそうですので、またおいおい。
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