【歴史探訪、今日へ繋がる時間軸(タイムライン)】vol.2 「源平合戦古戦場 六万寺ほか」
歴史ネタ。今回は源平合戦古戦場。きましたねぇ。子供の頃から知ってるでしょう?屋島の檀ノ浦は源氏と平家が戦った場所だということ。
時間設定・・・平安時代末期。「鳴くようぐいす平安京」の794年が平安時代の幕開けで、遣唐使の弘法大師がいたのは平安時代初期です。390年も続く平安時代の末期、源平合戦は1184年ですから350年ぐらい後ですね。教科書でも平家は壇ノ浦の戦いで滅亡した・・・と習いますが、子供の頃はてっきり屋島の檀ノ浦だと思っていました。これ、山口県の関門海峡の壇ノ浦なんですね。同じ「だんのうら」ですが屋島は木ヘンの「檀」、下関は土ヘンの「壇」と字が違います。一般に源平合戦・・・・治承・寿永の乱は、時の権力争い・・・当時は院政が敷かれていた時代でしたねぇ。院政・・・試験に出たでしょう?本来、天皇が統治するべきシステムだったものが、摂政、関白が天皇に代わって政治を行うようになったのが平安初期の摂関政治、藤原氏が台頭した時代ですね。天皇の外戚で関わりを持つという・・・
これに代わって天皇が権力を維持するために、次の天皇を指名し自分は上皇となって裏から操るのが院政です。歴史を語るうえで天皇抜きには語れないというのはこういうことですねぇ。私達が習った時代では「大和朝廷」と言っていましたが、現在は「ヤマト王権」になっています。3〜4世紀ごろから皇室が中心となって豪族をまとめた統一国家のことですね。「古事記」や「日本書紀」の前・・・中国大陸や朝鮮半島の書物に日本のことが記されていたことから推測されています。かつて日本は文明の進んだ中国や朝鮮半島に冊封されていたためです。冊封・・・戦いで優劣を決めるのでは永遠に戦い続けなければならないので、貢物を持って来させることで攻め込まない、返礼はそれ以上のものを持って帰させることで友好関係を保つって感じでしょうか。日本は遠かったので大陸と比較して攻め込まれる機会は少なかったのでしょう。それでも朝鮮半島の混乱に巻き込まれたのが中大兄皇子の頃の白村江の戦いでしょう。なので昔から日本は大陸との行き来は頻繁にあったんですね。
さて、話は飛びましたが・・・院政の時代も永遠には続きません。後白河法皇・・・77代天皇です。現在の徳仁天皇は126代ですから49代前の天皇です。源頼朝に命じて勢力を持ちすぎた平清盛を京から追放します。「平家物語」ではこの詳細はいろいろ描かれてますね。
「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」これ授業で暗記さされたじゃん。(笑 平家物語も改めて読まねばなりませんね。
京都から追われた平家が西へ逃げて、第一弾が「一の谷の戦い」、第二弾が「屋島の戦い」、第三段が「壇ノ浦の戦い」
兵庫県の須磨での一の谷の戦いの後、逃げ延びたのがここ、六万寺。行宮が完成するまでの行在所・・・仮の御所です。本殿はこちら。
こちらに山口県の壇ノ浦の戦いの末、8歳の安徳天皇と共に入水した祖母、二位尼の蝋人形が保管されているとか。残念ながら私が訪問した時は、閉まったままです。六万寺には菊王丸の長刀(なぎなた)もあるそうです。
左奥に愛宕神社があり、その脇に安徳天皇生母徳子の碑。あれ?お墓じゃなくて碑なのね。よく考えたら安徳天皇も二位尼も平家の一族と共に壇ノ浦の近くの赤間神社に祀られてますね。そりゃそうでしょ。屋島じゃないよ。
勝軍地蔵もあり・・・平家側の安徳天皇の行在所であったにも関わらず、その後屋島に行宮を構え、平家の陣営とした後は源義経が六万寺に戦勝祈願をしたという・・・
周辺の源平合戦史跡の案内図があります。
六万寺はことでんの駅もあるくらいなので、てっきり八十八ヶ所のお寺と同じくらい人が来るお寺かと思いましたが、閑散とした一般のお寺のようでした。駐車場も道も狭いですしね。
さて、せっかくなので案内図にあった源平合戦の史跡を回ってみましょう。屋島の戦いでは一番メジャーな那須与一。エヴァンゲリオンの葛城ミサトが命名した、第五使徒ラミエルを超長距離から狙撃するヤシマ作戦の名称はここから来ています。
八栗さんが見えますねぇ。私が行った時にはちょうど関西の俳句の会の観光バスが来ましたねぇ。有名な観光名所です。
あの・・・私、話には聞いていましたが、たぶん初めて来ました。(笑 あぁ、私、大河ドラマまったく見ないですから・・・大泉洋が源頼朝の「鎌倉殿の13人」にこのシーン、出てきたんですかねぇ。また見ないといかんですかねぇ。三谷幸喜・・・あまり好きじゃないんですけど。(笑
あぁ、あの紅白で三谷幸喜が審査員して、大泉洋が司会やってた頃に「鎌倉殿の13人」の話をしてた気がします。あの頃ブームだったんですねぇ。
個人的にもっと距離があったのかと思ってましたが、実際には75m。手前の岩から奥の水門の扇の的までだったそうです。いやいや、そんな近くに敵の船が18歳の姉ちゃんに扇持たせて挑発するんかなぁ。源氏は戦バカの源義経軍・・・頼朝の弟ですね。那須与一に命じて見事的を射落としたという伝説です。日が暮れかかってて、両軍ともに「戦はまた翌日・・・」と思われた時のエキシビションマッチみたいなもんでしょうか。
那須与一が弓を射る時に足場とした岩、駒立岩がこれです。干潮だったので岩がむき出しとなっていますが、満潮になると海の下に沈みます。屋島はこの先ぐるっと海で囲まれた島だったんですね。平家軍は島側に陣取ってました。
説明書きもありますよ。
那須与一が弓を射る前にお祈りをした岩まで・・・俳句の会の団体様といっしょに見学します。(笑
850年ぐらい前の話ですが・・・この岩は850年前のままってことですかねぇ。
あれ?こっちにも祈り岩がある。何回も祈ったんですね。
そこから屋島側の少し離れたところに「安徳天皇社」があります。ここが平宗盛が安徳天皇を奉じて行宮を建てた場所です。ここが完成するまで安徳天皇が滞在したのが冒頭の六万寺ですね。
説明書きの看板がありますが、字が消えかかってます。1183年にここへ来たということは1年以上はここにいたということですね。
この神社は安徳天皇ゆかりの地としてだいぶ後に建てられたものでしょうねぇ。
神社の裏にはブランコがあったりします。(笑 地域密着、憩いの場の神社です。
昭和57年に今上天皇の徳仁天皇が皇太子時代にここへ来られてますよ。その横は・・・大正五年(1916年)賀陽宮殿下は・・・戦後、皇族を離脱してますが、102代天皇、後花園天皇から分かれた遠縁の宮家のようですね。時代的には昭和天皇と同世代です。
そして、なぜかここに「支那事変」記念の碑が建っているという・・・どういう関係でしょう?しかも建てたのが壇ノ浦養豚組合って・・・・大東亜戦争の何かが絡んでいるんでしょうか。謎です。
神社の前では地元の爺さん2人が口喧嘩しながら田植えしてました。(笑 おばあさんは黙々と苗の準備をして・・・のどかな光景です。
そこから少し離れたところには菊王丸の墓があります。
源義経を狙った平教経の強弓を身代わりに受けた佐藤継信の首を取ろうとして近づいた若干18歳の菊王丸、佐藤忠信に射殺されてしまいます。六万寺には菊王丸の長刀が保管されていますが、この頃の主力武器は刀ではなく弓矢だったのですね。まぁ、たしかに射程は長いですから有利です。
せっかくなのでマリンパーク跡の「船かくし」にも寄ってみました。平家は水軍主体でしたから、ここ以外にも数百隻の船を隠していたそうです。
歴史を掘り起こすといろいろ面白いですねぇ。老後の楽しみにはちょうどよさそうです。
安徳天皇が祀られている下関、壇ノ浦の赤間神宮に行ってみたいですね。
時間設定・・・平安時代末期。「鳴くようぐいす平安京」の794年が平安時代の幕開けで、遣唐使の弘法大師がいたのは平安時代初期です。390年も続く平安時代の末期、源平合戦は1184年ですから350年ぐらい後ですね。教科書でも平家は壇ノ浦の戦いで滅亡した・・・と習いますが、子供の頃はてっきり屋島の檀ノ浦だと思っていました。これ、山口県の関門海峡の壇ノ浦なんですね。同じ「だんのうら」ですが屋島は木ヘンの「檀」、下関は土ヘンの「壇」と字が違います。一般に源平合戦・・・・治承・寿永の乱は、時の権力争い・・・当時は院政が敷かれていた時代でしたねぇ。院政・・・試験に出たでしょう?本来、天皇が統治するべきシステムだったものが、摂政、関白が天皇に代わって政治を行うようになったのが平安初期の摂関政治、藤原氏が台頭した時代ですね。天皇の外戚で関わりを持つという・・・
これに代わって天皇が権力を維持するために、次の天皇を指名し自分は上皇となって裏から操るのが院政です。歴史を語るうえで天皇抜きには語れないというのはこういうことですねぇ。私達が習った時代では「大和朝廷」と言っていましたが、現在は「ヤマト王権」になっています。3〜4世紀ごろから皇室が中心となって豪族をまとめた統一国家のことですね。「古事記」や「日本書紀」の前・・・中国大陸や朝鮮半島の書物に日本のことが記されていたことから推測されています。かつて日本は文明の進んだ中国や朝鮮半島に冊封されていたためです。冊封・・・戦いで優劣を決めるのでは永遠に戦い続けなければならないので、貢物を持って来させることで攻め込まない、返礼はそれ以上のものを持って帰させることで友好関係を保つって感じでしょうか。日本は遠かったので大陸と比較して攻め込まれる機会は少なかったのでしょう。それでも朝鮮半島の混乱に巻き込まれたのが中大兄皇子の頃の白村江の戦いでしょう。なので昔から日本は大陸との行き来は頻繁にあったんですね。
さて、話は飛びましたが・・・院政の時代も永遠には続きません。後白河法皇・・・77代天皇です。現在の徳仁天皇は126代ですから49代前の天皇です。源頼朝に命じて勢力を持ちすぎた平清盛を京から追放します。「平家物語」ではこの詳細はいろいろ描かれてますね。
「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」これ授業で暗記さされたじゃん。(笑 平家物語も改めて読まねばなりませんね。
京都から追われた平家が西へ逃げて、第一弾が「一の谷の戦い」、第二弾が「屋島の戦い」、第三段が「壇ノ浦の戦い」
兵庫県の須磨での一の谷の戦いの後、逃げ延びたのがここ、六万寺。行宮が完成するまでの行在所・・・仮の御所です。本殿はこちら。
こちらに山口県の壇ノ浦の戦いの末、8歳の安徳天皇と共に入水した祖母、二位尼の蝋人形が保管されているとか。残念ながら私が訪問した時は、閉まったままです。六万寺には菊王丸の長刀(なぎなた)もあるそうです。
左奥に愛宕神社があり、その脇に安徳天皇生母徳子の碑。あれ?お墓じゃなくて碑なのね。よく考えたら安徳天皇も二位尼も平家の一族と共に壇ノ浦の近くの赤間神社に祀られてますね。そりゃそうでしょ。屋島じゃないよ。
勝軍地蔵もあり・・・平家側の安徳天皇の行在所であったにも関わらず、その後屋島に行宮を構え、平家の陣営とした後は源義経が六万寺に戦勝祈願をしたという・・・
周辺の源平合戦史跡の案内図があります。
六万寺はことでんの駅もあるくらいなので、てっきり八十八ヶ所のお寺と同じくらい人が来るお寺かと思いましたが、閑散とした一般のお寺のようでした。駐車場も道も狭いですしね。
さて、せっかくなので案内図にあった源平合戦の史跡を回ってみましょう。屋島の戦いでは一番メジャーな那須与一。エヴァンゲリオンの葛城ミサトが命名した、第五使徒ラミエルを超長距離から狙撃するヤシマ作戦の名称はここから来ています。
八栗さんが見えますねぇ。私が行った時にはちょうど関西の俳句の会の観光バスが来ましたねぇ。有名な観光名所です。
あの・・・私、話には聞いていましたが、たぶん初めて来ました。(笑 あぁ、私、大河ドラマまったく見ないですから・・・大泉洋が源頼朝の「鎌倉殿の13人」にこのシーン、出てきたんですかねぇ。また見ないといかんですかねぇ。三谷幸喜・・・あまり好きじゃないんですけど。(笑
あぁ、あの紅白で三谷幸喜が審査員して、大泉洋が司会やってた頃に「鎌倉殿の13人」の話をしてた気がします。あの頃ブームだったんですねぇ。
個人的にもっと距離があったのかと思ってましたが、実際には75m。手前の岩から奥の水門の扇の的までだったそうです。いやいや、そんな近くに敵の船が18歳の姉ちゃんに扇持たせて挑発するんかなぁ。源氏は戦バカの源義経軍・・・頼朝の弟ですね。那須与一に命じて見事的を射落としたという伝説です。日が暮れかかってて、両軍ともに「戦はまた翌日・・・」と思われた時のエキシビションマッチみたいなもんでしょうか。
那須与一が弓を射る時に足場とした岩、駒立岩がこれです。干潮だったので岩がむき出しとなっていますが、満潮になると海の下に沈みます。屋島はこの先ぐるっと海で囲まれた島だったんですね。平家軍は島側に陣取ってました。
説明書きもありますよ。
那須与一が弓を射る前にお祈りをした岩まで・・・俳句の会の団体様といっしょに見学します。(笑
850年ぐらい前の話ですが・・・この岩は850年前のままってことですかねぇ。
あれ?こっちにも祈り岩がある。何回も祈ったんですね。
そこから屋島側の少し離れたところに「安徳天皇社」があります。ここが平宗盛が安徳天皇を奉じて行宮を建てた場所です。ここが完成するまで安徳天皇が滞在したのが冒頭の六万寺ですね。
説明書きの看板がありますが、字が消えかかってます。1183年にここへ来たということは1年以上はここにいたということですね。
この神社は安徳天皇ゆかりの地としてだいぶ後に建てられたものでしょうねぇ。
神社の裏にはブランコがあったりします。(笑 地域密着、憩いの場の神社です。
昭和57年に今上天皇の徳仁天皇が皇太子時代にここへ来られてますよ。その横は・・・大正五年(1916年)賀陽宮殿下は・・・戦後、皇族を離脱してますが、102代天皇、後花園天皇から分かれた遠縁の宮家のようですね。時代的には昭和天皇と同世代です。
そして、なぜかここに「支那事変」記念の碑が建っているという・・・どういう関係でしょう?しかも建てたのが壇ノ浦養豚組合って・・・・大東亜戦争の何かが絡んでいるんでしょうか。謎です。
神社の前では地元の爺さん2人が口喧嘩しながら田植えしてました。(笑 おばあさんは黙々と苗の準備をして・・・のどかな光景です。
そこから少し離れたところには菊王丸の墓があります。
源義経を狙った平教経の強弓を身代わりに受けた佐藤継信の首を取ろうとして近づいた若干18歳の菊王丸、佐藤忠信に射殺されてしまいます。六万寺には菊王丸の長刀が保管されていますが、この頃の主力武器は刀ではなく弓矢だったのですね。まぁ、たしかに射程は長いですから有利です。
せっかくなのでマリンパーク跡の「船かくし」にも寄ってみました。平家は水軍主体でしたから、ここ以外にも数百隻の船を隠していたそうです。
歴史を掘り起こすといろいろ面白いですねぇ。老後の楽しみにはちょうどよさそうです。
安徳天皇が祀られている下関、壇ノ浦の赤間神宮に行ってみたいですね。
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