【歴史探訪、今日へ繋がる時間軸(タイムライン)】vol.1 「昭和の日に思ふ・・・・昭和天皇」
新シリーズ、歴史探訪。これも前からずっとやりたかったのねぇ。
今回の星乃岡温泉でも感じましたが、あちこち行ってると「ここは昔〇〇があった場所・・・」というのに遭遇することがあります。八十八ヶ所のお寺もそうですが、史跡を巡る・・・というのも年相応でこれからの趣味としてよさそうです。
第一回は・・・史跡めぐりではないですが、先日、4月29日の昭和の日にふと「昭和天皇の誕生日でしょう?でも昭和天皇のことってそんなに詳しく知らないなぁ」と思ってwikiとかネットの情報を調べてみました。便利な世の中です。昔なら本屋か図書館へ行って調べないといけなかったのが、携帯やPCですぐ調べられます。あぁ、そういえば昔は「ちょっと図書館へ調べ物に・・・」なんて言ってましたねぇ。
冒頭の画像、昭和天皇の幼い頃です。1902年、満1歳。迪宮裕仁親王(当時)。旭日旗を掲げてめっちゃいい写真です。当時は大日本帝國ですからねぇ。私が知っている唯一亡くなった天皇です。元号が変わる初めての経験でしたねぇ。昭和から平成。昭和は日本にとって激動の時代でした。大日本帝國から日本国に変わり、そのふたつの国の天皇は昭和天皇だけです。
私が24歳ぐらいの頃に、仕事で豊橋の食品工場へ行きまして、機械を設置、調整、試運転の仕事をしていました。夜、その工場の社長さんと工場長と食事をすることになり、うちの会社は事業部長と営業担当と私の3人での会食でした。まぁ、営業担当と2人で接待するというのはたまにありましたが、若干24歳の私が「うちの息子と同い年や」と言ってた事業部長と同席というのは初めてだったと思います。
まぁ、ビール飲みながらの食事で・・・事業部長、営業、社長、工場長が会話をしているのを聞いていて・・・相槌を打つくらいしかできなかったのを覚えています。社会人になってまだ間もなかったですからねぇ。何の話からか天皇陛下の話になって「けいつ〜さんは天皇陛下のことをどう思われていますか?」という質問をされて・・・安心しきって食事していたのに、突然話を振られて「へ?」という感じで・・・「いえ、特にないです。」ってとっさに答えたらその事業部長が「お前、工場長がお前に聞いてるんやからちゃんと答えろや!」って怒られて当時の私の頭で必死でグルグル考えて「私が知ってる天皇陛下はすでに国の象徴になっておられましたので、特に何かを感じるというのはないです。」・・・と結果的には「特にないです」を言葉を少し加えただけの答えになってしまって・・・・正直、24歳の私は特に興味がなかったですよ。大東亜戦争のこともそんなに知らないし。それに昭和天皇が大きく関わっていたことも詳しく知らなかったです。
私は「新人類」と呼ばれた世代です。その事業長がよく「おい!新人類!どうやこれ?」って感じで吊し上げられましたねぇ。(笑 まぁ、あの二十代があったからその後の私につながるわけです。その工場長からも「もう少し若い人の率直な意見が聞きたかったなぁ・・」と言われても友達と喋るんじゃないですから、取引先の人と話すので、立場をわきまえた言い回しや相手が共感するような回答を言葉で表現できなかったんですね。松本の会社で40代で中国の工場へ行くくらいの時なら、社長や常務や工場長、取引先の社長と同席でも空気読んで度のタイミングでどう合いの手を入れて、どういう話題を提供するか・・・みたいなのはできたんですけどねぇ。当時の私はまだ経験が浅いので青いです。(笑
「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す」
第二次世界大戦・・・日本側の呼称は「大東亜戦争」(GHQに使用はその呼称は禁止されましたが)です。その終戦を国民に伝えた玉音放送で有名なのはここの一文ですが、全文はこれです。
「朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ」
この全文は見たことなかったですね。これを昭和天皇が国民に直接言ったというのはすごいです。現人神(あらひとがみ)と称えられた昭和天皇がここまでお言葉を下さったとは・・・・帝國民はどんな気持ちだったでしょう。
「朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く」
この文章がありますね。「東亜の解放」。私が共感する「大東亜共栄圏」・・・・日本が目指す道は今もコレだと思っています。日本はアメリカの属国ではない。今の政治がおかしいのも全ては日米安保条約による日本とアメリカの関係からです。自国は自国で防衛。以前から事あるごとに何度かブログでも綴ってますが、経済戦争が結果、武力による戦争につながる事は歴史上でも何度も起こっています。今のままでいいのか日本?
いやいや、そういう話じゃなくて・・・昭和天皇。(笑
昭和天皇は本当に激動の人生を歩まれてます。1901年に大正天皇の第1皇子として誕生し、1916年に立太子、皇太子となられます。15歳ですねぇ。イギリス、イタリア、フランス、ベルギーを訪問。当時、大正天皇が病気で思わしくなかったからでしょうね。帰国後に摂政に就任します。
当時の大日本帝國の地図。朝鮮半島、台湾、南樺太が入っています。たかだか100年前の日本ですよ。考えられないでしょう?
内地以外の外地には、朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太庁、南洋庁等の官庁が置かれ、統治されていたんですねぇ。
1926年に大正天皇崩御。皇位継承、25歳ですか。若いですね。124代天皇として践祚(せんそ)。読めん。大日本帝国憲法下において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」・・・・總攬(そうらん)・・・も読めん。漢字検定に出てきそうな文字です。読めんし書けん。天皇が国家の元首であり統治権を持ちとりまとめるという意味のようです。立憲君主制。
大東亜戦争は1937年の日華事変を発端に、大日本帝國と中華民国の間の日中戦争となり、蒋介石率いる中国国民党、1941年には米英蘭との戦争も含め、1945年の終戦までの8年間戦うこととなります。その間、昭和天皇は帝國の国家元首であり、御歳44歳。1946年の連合軍占領下にて元日に昭和天皇自ら「人間宣言」を発し、以下現代語訳。
「ここに新年を迎える。 顧みれば、明治天皇は明治の初め、国是として五箇条の御誓文をお示しになられた。 それによると、
一、幅広く会議を開き、何事も議論をして世論に従い決めなければならない。
一、身分の高い者も低い者も心をひとつにして、積極的に国のあり方を考えていかなければならない。
一、中央政府も地方の領主も、庶民に至るまで、それぞれ志を遂げ、人々が生きていて幸せに感じる事が重要である。
一、古くからの悪しき習慣を打ち破り、人類普遍の正しい道に基づいていかなければならない。
一、知識を世界に求め、大いにこの国の基盤となる力を高めなければならない。
お考えは公明正大であり、付け加えなければならない事柄は何もない。 わたしはここに誓いを新たにして国の運命を開いていきたい。 当然このご趣旨に則り、古くからの悪しき習慣を捨て、民意を自由に広げてもらい、官民を挙げて平和主義に徹し、教養を豊かにして文化を築き、そうして国民生活の向上を図り、新日本を建設しなければならない。
大小の都市の被った戦禍、罹災者の苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者増加の趨勢などは実に心を痛める事である。 しかしながら、我が国民は現在の試練に直面し、なおかつ徹頭徹尾、豊かさを平和の中に求める決意は固く、その結束をよく全うすれば、ただ我が国だけでなく全人類のために、輝かしき未来が展開されることを信じている。
そもそも家を愛する心と国を愛する心は、我が国では特に熱心だったようだ。 今こそ、この心をさらに広げ、人類愛の完成に向け、献身的な努力をすべき時である。
思うに長きにわたった戦争が敗北に終わった結果、我が国民はややもすれば思うようにいかず焦り、失意の淵に沈んでしまいそうな流れがある。 過激な風潮が段々と強まり、道義の感情はとても衰えて、そのせいで思想に混乱の兆しがあるのはとても心配な事である。
しかし私はあなたたち国民と共にいて、常に利害は同じくし喜びも悲しみも共に持ちたいと願う。 私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。 天皇を神とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。 私が任命した政府は国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と政府の運営に万全の方法を準備しなければならない。 同時に、私は我が国民が難問の前に立ち上がり、当面の苦しみを克服するために、また産業と学芸の振興のために前進することを願う。 我が国民がその市民生活において団結し、寄り合い助け合い、寛容に許し合う気風が盛んになれば、わが至高の伝統に恥じない真価を発揮することになるだろう。 そのようなことは実に我が国民が人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をなす元になることは疑いようがない。
一年の計は年頭にあり、私は私が信頼する国民が私とその心を一つにして、自ら奮いたち、自ら力づけ、そうしてこの大きな事業を完成させる事を心から願う」。
冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文が入っていました。 明治天皇の意志を尊重し、新たな国家を目指すという内容になっています。その後、昭和天皇は1949年までの3年間、日本全国を巡幸し、敗戦後の国民と接しました。1947年に日本国憲法が施行。国号の呼称は法令には定めず、慣習によるものとし、「日本国」となった。
私の知る昭和天皇は、この後の象徴天皇になってからで、実際にはお会いしたことはありません。1989年に崩御。明確な記録が残る天皇としては最も在位期間が長く62年14日間在位。最高齢87歳。これも若くして天皇に即位したからこそであります。昭和天皇、激動の日本の天皇でしたね。
今上天皇の徳仁(なるひと)天皇には皇太子時代に遠くに見た記憶があります。私生きている間に一度、一般参賀に行く必要がありますね。
という・・・・今後、歴史を語るうえで天皇に関わる内容となりそうなので、まずは昭和天皇から始めてみました。不敬ではないですよね。尊敬すべきお方です。間違いなく、今日へ繋がるタイムライン。
今回の星乃岡温泉でも感じましたが、あちこち行ってると「ここは昔〇〇があった場所・・・」というのに遭遇することがあります。八十八ヶ所のお寺もそうですが、史跡を巡る・・・というのも年相応でこれからの趣味としてよさそうです。
第一回は・・・史跡めぐりではないですが、先日、4月29日の昭和の日にふと「昭和天皇の誕生日でしょう?でも昭和天皇のことってそんなに詳しく知らないなぁ」と思ってwikiとかネットの情報を調べてみました。便利な世の中です。昔なら本屋か図書館へ行って調べないといけなかったのが、携帯やPCですぐ調べられます。あぁ、そういえば昔は「ちょっと図書館へ調べ物に・・・」なんて言ってましたねぇ。
冒頭の画像、昭和天皇の幼い頃です。1902年、満1歳。迪宮裕仁親王(当時)。旭日旗を掲げてめっちゃいい写真です。当時は大日本帝國ですからねぇ。私が知っている唯一亡くなった天皇です。元号が変わる初めての経験でしたねぇ。昭和から平成。昭和は日本にとって激動の時代でした。大日本帝國から日本国に変わり、そのふたつの国の天皇は昭和天皇だけです。
私が24歳ぐらいの頃に、仕事で豊橋の食品工場へ行きまして、機械を設置、調整、試運転の仕事をしていました。夜、その工場の社長さんと工場長と食事をすることになり、うちの会社は事業部長と営業担当と私の3人での会食でした。まぁ、営業担当と2人で接待するというのはたまにありましたが、若干24歳の私が「うちの息子と同い年や」と言ってた事業部長と同席というのは初めてだったと思います。
まぁ、ビール飲みながらの食事で・・・事業部長、営業、社長、工場長が会話をしているのを聞いていて・・・相槌を打つくらいしかできなかったのを覚えています。社会人になってまだ間もなかったですからねぇ。何の話からか天皇陛下の話になって「けいつ〜さんは天皇陛下のことをどう思われていますか?」という質問をされて・・・安心しきって食事していたのに、突然話を振られて「へ?」という感じで・・・「いえ、特にないです。」ってとっさに答えたらその事業部長が「お前、工場長がお前に聞いてるんやからちゃんと答えろや!」って怒られて当時の私の頭で必死でグルグル考えて「私が知ってる天皇陛下はすでに国の象徴になっておられましたので、特に何かを感じるというのはないです。」・・・と結果的には「特にないです」を言葉を少し加えただけの答えになってしまって・・・・正直、24歳の私は特に興味がなかったですよ。大東亜戦争のこともそんなに知らないし。それに昭和天皇が大きく関わっていたことも詳しく知らなかったです。
私は「新人類」と呼ばれた世代です。その事業長がよく「おい!新人類!どうやこれ?」って感じで吊し上げられましたねぇ。(笑 まぁ、あの二十代があったからその後の私につながるわけです。その工場長からも「もう少し若い人の率直な意見が聞きたかったなぁ・・」と言われても友達と喋るんじゃないですから、取引先の人と話すので、立場をわきまえた言い回しや相手が共感するような回答を言葉で表現できなかったんですね。松本の会社で40代で中国の工場へ行くくらいの時なら、社長や常務や工場長、取引先の社長と同席でも空気読んで度のタイミングでどう合いの手を入れて、どういう話題を提供するか・・・みたいなのはできたんですけどねぇ。当時の私はまだ経験が浅いので青いです。(笑
「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す」
第二次世界大戦・・・日本側の呼称は「大東亜戦争」(GHQに使用はその呼称は禁止されましたが)です。その終戦を国民に伝えた玉音放送で有名なのはここの一文ですが、全文はこれです。
「朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ」
この全文は見たことなかったですね。これを昭和天皇が国民に直接言ったというのはすごいです。現人神(あらひとがみ)と称えられた昭和天皇がここまでお言葉を下さったとは・・・・帝國民はどんな気持ちだったでしょう。
「朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く」
この文章がありますね。「東亜の解放」。私が共感する「大東亜共栄圏」・・・・日本が目指す道は今もコレだと思っています。日本はアメリカの属国ではない。今の政治がおかしいのも全ては日米安保条約による日本とアメリカの関係からです。自国は自国で防衛。以前から事あるごとに何度かブログでも綴ってますが、経済戦争が結果、武力による戦争につながる事は歴史上でも何度も起こっています。今のままでいいのか日本?
いやいや、そういう話じゃなくて・・・昭和天皇。(笑
昭和天皇は本当に激動の人生を歩まれてます。1901年に大正天皇の第1皇子として誕生し、1916年に立太子、皇太子となられます。15歳ですねぇ。イギリス、イタリア、フランス、ベルギーを訪問。当時、大正天皇が病気で思わしくなかったからでしょうね。帰国後に摂政に就任します。
当時の大日本帝國の地図。朝鮮半島、台湾、南樺太が入っています。たかだか100年前の日本ですよ。考えられないでしょう?
内地以外の外地には、朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太庁、南洋庁等の官庁が置かれ、統治されていたんですねぇ。
1926年に大正天皇崩御。皇位継承、25歳ですか。若いですね。124代天皇として践祚(せんそ)。読めん。大日本帝国憲法下において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」・・・・總攬(そうらん)・・・も読めん。漢字検定に出てきそうな文字です。読めんし書けん。天皇が国家の元首であり統治権を持ちとりまとめるという意味のようです。立憲君主制。
大東亜戦争は1937年の日華事変を発端に、大日本帝國と中華民国の間の日中戦争となり、蒋介石率いる中国国民党、1941年には米英蘭との戦争も含め、1945年の終戦までの8年間戦うこととなります。その間、昭和天皇は帝國の国家元首であり、御歳44歳。1946年の連合軍占領下にて元日に昭和天皇自ら「人間宣言」を発し、以下現代語訳。
「ここに新年を迎える。 顧みれば、明治天皇は明治の初め、国是として五箇条の御誓文をお示しになられた。 それによると、
一、幅広く会議を開き、何事も議論をして世論に従い決めなければならない。
一、身分の高い者も低い者も心をひとつにして、積極的に国のあり方を考えていかなければならない。
一、中央政府も地方の領主も、庶民に至るまで、それぞれ志を遂げ、人々が生きていて幸せに感じる事が重要である。
一、古くからの悪しき習慣を打ち破り、人類普遍の正しい道に基づいていかなければならない。
一、知識を世界に求め、大いにこの国の基盤となる力を高めなければならない。
お考えは公明正大であり、付け加えなければならない事柄は何もない。 わたしはここに誓いを新たにして国の運命を開いていきたい。 当然このご趣旨に則り、古くからの悪しき習慣を捨て、民意を自由に広げてもらい、官民を挙げて平和主義に徹し、教養を豊かにして文化を築き、そうして国民生活の向上を図り、新日本を建設しなければならない。
大小の都市の被った戦禍、罹災者の苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者増加の趨勢などは実に心を痛める事である。 しかしながら、我が国民は現在の試練に直面し、なおかつ徹頭徹尾、豊かさを平和の中に求める決意は固く、その結束をよく全うすれば、ただ我が国だけでなく全人類のために、輝かしき未来が展開されることを信じている。
そもそも家を愛する心と国を愛する心は、我が国では特に熱心だったようだ。 今こそ、この心をさらに広げ、人類愛の完成に向け、献身的な努力をすべき時である。
思うに長きにわたった戦争が敗北に終わった結果、我が国民はややもすれば思うようにいかず焦り、失意の淵に沈んでしまいそうな流れがある。 過激な風潮が段々と強まり、道義の感情はとても衰えて、そのせいで思想に混乱の兆しがあるのはとても心配な事である。
しかし私はあなたたち国民と共にいて、常に利害は同じくし喜びも悲しみも共に持ちたいと願う。 私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。 天皇を神とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。 私が任命した政府は国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と政府の運営に万全の方法を準備しなければならない。 同時に、私は我が国民が難問の前に立ち上がり、当面の苦しみを克服するために、また産業と学芸の振興のために前進することを願う。 我が国民がその市民生活において団結し、寄り合い助け合い、寛容に許し合う気風が盛んになれば、わが至高の伝統に恥じない真価を発揮することになるだろう。 そのようなことは実に我が国民が人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をなす元になることは疑いようがない。
一年の計は年頭にあり、私は私が信頼する国民が私とその心を一つにして、自ら奮いたち、自ら力づけ、そうしてこの大きな事業を完成させる事を心から願う」。
冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文が入っていました。 明治天皇の意志を尊重し、新たな国家を目指すという内容になっています。その後、昭和天皇は1949年までの3年間、日本全国を巡幸し、敗戦後の国民と接しました。1947年に日本国憲法が施行。国号の呼称は法令には定めず、慣習によるものとし、「日本国」となった。
私の知る昭和天皇は、この後の象徴天皇になってからで、実際にはお会いしたことはありません。1989年に崩御。明確な記録が残る天皇としては最も在位期間が長く62年14日間在位。最高齢87歳。これも若くして天皇に即位したからこそであります。昭和天皇、激動の日本の天皇でしたね。
今上天皇の徳仁(なるひと)天皇には皇太子時代に遠くに見た記憶があります。私生きている間に一度、一般参賀に行く必要がありますね。
という・・・・今後、歴史を語るうえで天皇に関わる内容となりそうなので、まずは昭和天皇から始めてみました。不敬ではないですよね。尊敬すべきお方です。間違いなく、今日へ繋がるタイムライン。
この記事へのコメント
あぁ、じいちゃんも激動の時代を生き抜いたんだなぁ。じいちゃんと話したかったなぁ。59歳で胃がんで亡くなったから、私の歳にはもうこの世にいなかったんだなぁ。