全店制覇!さぬきうどん!vol.54 【思い出編】高松 扇町 「松川屋」
うどんネタです。しかも今回は思い出編。
昨年末のおじさんの葬式の時に・・・・火葬場でお骨になるのを葬祭場で待っていたとき・・・・・おふくろの弟の奥さん・・・一般的におばさんですが、そのおばさんと昔話に華が咲きまして・・・・むかしのうどん屋の話になったんですね。そこで扇町の松川屋の話になって
「まつかわやろ?よっさんくの前の。あそこの兄ちゃんがおかもちでうどんを自転車で配達しよったな。」
扇町の路地の真ん中にあったうどん屋さん。今はもう廃業してないですが・・・・・ふとネットで検索してみたら、なんと店主さんにインタビューしている記事を見つけました。
さぬきうどん開業ヒストリー「松川屋」
なんとまぁ・・・・店主さんが熱く語ってくれてますが、なんとまつかわ、三代、100年続いたうどん屋だったって・・・・それ、ものすごいことやん?いま現存するうどん屋で100年も続いてる店ってあるかなぁ・・・・・ないよなぁ。たぶん。2015年まで営業してたんですね。ということは、1915年創業?大正4年?日露戦争の10年後。第一次世界大戦のころじゃないですか。対華二十一箇条要求の年だ。(笑)
ネットで当時の暮らしぶり調べたら、まだみんな着物きてる頃ですよ。こんな頃からまつかわのうどん屋が扇町にあったんやなぁ。
ほらほら。店主さんの話の中に、おかもちで出前しよったって話が出てきた。目が悪かったから自転車で配達するしかなかったって・・・・そういえば兄ちゃん、牛乳瓶のそこみたいな丸いメガネかけていつもニコニコしながら自転車でおかもち持って配達しよったわ。
でも待て、おじさん、昭和12年生まれって・・・・・私よりも27歳も年上・・・・当時、私が10歳として、37歳?いやいや・・・・そんな歳の人じゃなかったなぁ・・・20歳半ばくらいだったと思うけどなぁ。アルバイトの兄ちゃんかなぁ。
冒頭の画像がまつかわのうどん。これ、こんぴらうどんのかやくうどんと同じパターンですね。「中浦」さんいう製麺所が2軒あったんや・・・・恐るべきさぬきうどんに出てくる、権現さんの近くの中浦ですね。たぶん、もう1軒は、かねすえの裏の製麺所や。今はもうないけど。むかしあそこでうどん作りよん見たことある。製麺所でうどん玉買うてきて、ゆがいて出すうどん屋が多かった・・・・・そうそう。むかしはみんなそうでした。うちの裏にも市場に来る人目当ての「辻」言ううどん屋があったんですよ。ゆがいて具をのせて出汁かけて出すだけやから、すぐできよった。
バラ寿司!なつかしいなぁ。今でもバラ寿司置いてる店は何軒かありますけど。うどんにはおにぎりよりも、バラ寿司の方が合うなぁ。
3代目は50年やったんですねぇ。私が生まれた頃から2015年までやったんですねぇ。創業100年の半分、よくやりましたねぇ。隣が銭湯だった・・・・銭湯だったかなぁ・・・・向かいは片腕のよっさんが営む焼き芋売ってる駄菓子屋だったと書いて欲しかったな。
出汁はいりこだけ。昔のうどんはいりこだしが多かった。あの独特の香り。今も上戸うどんみたいにいりこが強い出汁のうどんを食べると、昔を思い出しますね。
この店舗は私が知ってるまつかわではないですね。木造の古い店でしたから、その後建て替えたんですね。
近くにある扇町公園は西浜小学校だった・・・・私の母校、日新小学校の前身が西浜小学校。私の両親の母校です。あの時代は扇町に人がようけおって、うどんも寿司もようけ売れた。たしかにそうかもしれないなぁ。今は扇町も人は少なくなったけど、私が子供の頃はあの路地も人がいっぱい歩きよったからなぁ。子供もいっぱいおったし。古き好き時代かな。
船におるけん船まで持ってきてくれって・・・・近所の漁師ならいいそうなことや。(笑)船に渡る板の上は歩けんから・・・ははは。そりゃそうだ。あれはちょっと難しいね。潮によっては船が高いから角度がついて登りにくい。滑り止めに木が打ってあるけどね。子供の頃はよく親父の船に乗りましたね。
いやいや、まさか店主さんの直接インタビューの記事があるとは・・・・・いい話を聞かせてもらいました。私もついつい讃岐弁になってしまいました。(笑)
さらにうどん屋は、近くの踏切渡ったところに「とみ」のうどん屋もありましてね。まぁ、この辺はうどん屋とお好み焼き屋があって、休みの日の昼は大抵大勢の人がお店で食べてましたね。200円も出したら十分食べられましたからね。
扇町のうどん屋、松川屋、とみ、辻・・・・の話でした。
昨年末のおじさんの葬式の時に・・・・火葬場でお骨になるのを葬祭場で待っていたとき・・・・・おふくろの弟の奥さん・・・一般的におばさんですが、そのおばさんと昔話に華が咲きまして・・・・むかしのうどん屋の話になったんですね。そこで扇町の松川屋の話になって
「まつかわやろ?よっさんくの前の。あそこの兄ちゃんがおかもちでうどんを自転車で配達しよったな。」
扇町の路地の真ん中にあったうどん屋さん。今はもう廃業してないですが・・・・・ふとネットで検索してみたら、なんと店主さんにインタビューしている記事を見つけました。
さぬきうどん開業ヒストリー「松川屋」
なんとまぁ・・・・店主さんが熱く語ってくれてますが、なんとまつかわ、三代、100年続いたうどん屋だったって・・・・それ、ものすごいことやん?いま現存するうどん屋で100年も続いてる店ってあるかなぁ・・・・・ないよなぁ。たぶん。2015年まで営業してたんですね。ということは、1915年創業?大正4年?日露戦争の10年後。第一次世界大戦のころじゃないですか。対華二十一箇条要求の年だ。(笑)
ネットで当時の暮らしぶり調べたら、まだみんな着物きてる頃ですよ。こんな頃からまつかわのうどん屋が扇町にあったんやなぁ。
ほらほら。店主さんの話の中に、おかもちで出前しよったって話が出てきた。目が悪かったから自転車で配達するしかなかったって・・・・そういえば兄ちゃん、牛乳瓶のそこみたいな丸いメガネかけていつもニコニコしながら自転車でおかもち持って配達しよったわ。
でも待て、おじさん、昭和12年生まれって・・・・・私よりも27歳も年上・・・・当時、私が10歳として、37歳?いやいや・・・・そんな歳の人じゃなかったなぁ・・・20歳半ばくらいだったと思うけどなぁ。アルバイトの兄ちゃんかなぁ。
冒頭の画像がまつかわのうどん。これ、こんぴらうどんのかやくうどんと同じパターンですね。「中浦」さんいう製麺所が2軒あったんや・・・・恐るべきさぬきうどんに出てくる、権現さんの近くの中浦ですね。たぶん、もう1軒は、かねすえの裏の製麺所や。今はもうないけど。むかしあそこでうどん作りよん見たことある。製麺所でうどん玉買うてきて、ゆがいて出すうどん屋が多かった・・・・・そうそう。むかしはみんなそうでした。うちの裏にも市場に来る人目当ての「辻」言ううどん屋があったんですよ。ゆがいて具をのせて出汁かけて出すだけやから、すぐできよった。
バラ寿司!なつかしいなぁ。今でもバラ寿司置いてる店は何軒かありますけど。うどんにはおにぎりよりも、バラ寿司の方が合うなぁ。
3代目は50年やったんですねぇ。私が生まれた頃から2015年までやったんですねぇ。創業100年の半分、よくやりましたねぇ。隣が銭湯だった・・・・銭湯だったかなぁ・・・・向かいは片腕のよっさんが営む焼き芋売ってる駄菓子屋だったと書いて欲しかったな。
出汁はいりこだけ。昔のうどんはいりこだしが多かった。あの独特の香り。今も上戸うどんみたいにいりこが強い出汁のうどんを食べると、昔を思い出しますね。
この店舗は私が知ってるまつかわではないですね。木造の古い店でしたから、その後建て替えたんですね。
近くにある扇町公園は西浜小学校だった・・・・私の母校、日新小学校の前身が西浜小学校。私の両親の母校です。あの時代は扇町に人がようけおって、うどんも寿司もようけ売れた。たしかにそうかもしれないなぁ。今は扇町も人は少なくなったけど、私が子供の頃はあの路地も人がいっぱい歩きよったからなぁ。子供もいっぱいおったし。古き好き時代かな。
船におるけん船まで持ってきてくれって・・・・近所の漁師ならいいそうなことや。(笑)船に渡る板の上は歩けんから・・・ははは。そりゃそうだ。あれはちょっと難しいね。潮によっては船が高いから角度がついて登りにくい。滑り止めに木が打ってあるけどね。子供の頃はよく親父の船に乗りましたね。
いやいや、まさか店主さんの直接インタビューの記事があるとは・・・・・いい話を聞かせてもらいました。私もついつい讃岐弁になってしまいました。(笑)
さらにうどん屋は、近くの踏切渡ったところに「とみ」のうどん屋もありましてね。まぁ、この辺はうどん屋とお好み焼き屋があって、休みの日の昼は大抵大勢の人がお店で食べてましたね。200円も出したら十分食べられましたからね。
扇町のうどん屋、松川屋、とみ、辻・・・・の話でした。
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